ドイツワインの歴史ー8

エアーバッハ修道院とビスマルク

Eberbach

ドイツワイン文化に君臨するヨハニスベルグ城の双璧に、エーバーバッハ修道院がある。
シトー派の修道僧によって建設され(1135年)、営まれて来たそのワイン造りは、その歴史と共に、その名を中世ヨーロッパにとどろかせた。品質の高さに加え、教会・修道院のラインの通行税免除という特権で、競争相手知らずの大船団を組み、遠く英国方面まで輸出されていた花形銘柄である。今も残るエストリッヒ村の旧いクレーンはそのワイン樽の積み出しに使われたものである。

エーバーバッハ修道院の建物は、現在ヘッセン州政府の所管に移されている。ドイツの著名ワイン学者・技術者など、ワイン業界に貢献度の高い人々で構成され、最高権威を持つラインガウ・ワイン協会(Rheingauer Weinkonvent)の本部もここにある。

エーバーバッハ修道院のあるハッテンハイム村の葡萄畑の中でも、周囲をぐるりと壁で囲まれたシュタインベルグ(Steinberug)は特に有名である。
畑の開墾は修道院建設と時を同じくするが、この石壁の完成は1766年である。全長2.5km、高さ2m以上にもなるこの壁は1766年にようやく完成されたが、その目的は盗難防止であつた。 甘い物が貴重だった当時、良く熟したぶどうはその格好の対象だつたわけである。

ところが、盗難防止用のこの壁が、実はミクロ気候(微小気候)に非常に良い具合に作用したのである。日中に暖められた空気は、この壁のお蔭で夕方の冷い空気に流し去られにくく、長く日溜りの場が与えられ、ぶどうの成育に好影響を与える結果となった。又、壁に沿って植えられたぶどうは、壁が夜間に放出する日中に貯えられた太陽エネルギーによって一層熟した。豊かな酸によりひきしまったシュタインベルガーは非常にフルーティーで、かの鉄血宰相ビスマルク愛飲のワインとしても良く知られている。

 

Oestrich-Winkel

 

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 ビスマルク
Bismarck プロイセン王国の宰相 、ドイツ帝国初代宰相(1871 - 1890)。
プロイセン王ヴィルヘルム1世の右腕としてドイツ統一を目指して鉄血政策を推進し、普墺戦争や普仏戦争を主導してこれに勝利。ドイツ統一の立役者となる。
ヴィルヘルム1世をドイツ皇帝として戴冠させた君主主義の保守的な政治家。優れた外交官でもあり、現実に根ざしたその政治的手腕には卓越したものがあった。

ビスマルクは、1862年、プロイセン国王・ヴィルヘルム1世によって、首相兼外相に任命される。この時、ヴィルヘルム1世と議会は兵役期間を2年にするか3年にするかで対立し、ドイツ統一を目標とするヴィルヘルム1世は議会を説得するためにビスマルクを起用した。期待に応え、ビスマルクは軍事費の追加予算を議会に認めさせた。 この時にビスマルクは、「現在の大問題(=ドイツ統一)は、演説や多数決ではなく、鉄(=大砲)と血(=兵隊)によってこそ解決される」という演説を行った。以後「鉄血宰相」の異名をとる。

富国強兵の鉄血政策を大きく進める一方で、国際的に良好な関係を作る事にも腐心し、イタリアやロシアに接近し、オーストリアとも同盟を結び、この同盟関係を背景に1864年にデンマークと争い、勝利してシュレースヴィヒ(ホルシュタイン)を奪った。
対デンマーク戦争に勝利して国民の支持も取り付けたビスマルクは、更に手腕を振るうようになる。デンマークから奪った地域の領有権を巡ってオーストリアと対立すると、入念な準備の上で1866年6月オーストリアに宣戦布告。7週間で勝利する(普墺戦争)。
その一方でオーストリアとの講和では寛大なところを見せて、オーストリアの決定的な反感を買わないようにも気を配っている。

これによりウイーン会議で作られたドイツ連邦は解体され、プロイセン主導の北ドイツ諸邦で構成する北ドイツ連邦にまとめ上げ、自身、宰相となって、ドイツ統一への第一歩を踏み出す。
こうした状況にフランス皇帝ナポレオン3世は危機感を覚え、プロイセン王家に繋がるレオポルト公のスペイン王位継承問題について、ヴィルヘルム1世に永続性のある保証を要求してきた。ビスマルクはこれを逆用して世論を煽り、1870年7月、フランスをプロイセンに宣戦布告させることに成功(普仏戦争)。会戦1ヵ月半後に、フランスに勝利し、ナポレオン3世は捕虜となり、フランス第二帝政は崩壊する。
年明けにはパリは包囲され、いまだ砲撃が続く中の1月18日、プロイセン王ヴィルヘルム1世は、ヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝に即位し、ここにドイツ帝国の成立が宣言された。
普仏戦争の目的は、北ドイツ連邦に属さないバイエルン王国をはじめとするドイツ南部諸邦に北との連帯感を持たせ、ドイツ統一を実現する事にあった。ビスマルクの目論は達成される。

日本の明治政府の岩倉使節団はプロイセンを訪問しているが、ビスマルクと会見した伊藤博文・大久保利通らは大きな影響を受けた。大久保は西郷隆盛に宛てた手紙の中で、ビスマルクのその言説と人となりに大きな感銘を受けたことを綴っている。ビスマルクは、音楽にも通じ、名文家でもあった。

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